自然豊かな農山漁村に移り住み、地元小中学校に通いながら、さまざまな体験を積む山村留学。1976年(昭和51年)に長野県八坂村(現 大町市八坂)から始まった取り組みは、日本各地に広がり、小中学生の心を育み、また地域に活力を与える存在として今も続いています。
美山の知井地域も、1998年度から2022年度まで南丹市美山山村留学事業を実施。これまで100名を超える子どもを受け入れてきました。
自然を楽しみながら過ごした山村留学
香川県坂出市出身。高校を卒業し、社会人になった後も地元でOLをしていた長野さんと美山の出会いは、小学生の時まで遡ります。
「両親が新聞で山村留学の見学会の情報を見つけて訪れたのが最初です。コンクリートの小学校しか知らなかったから、木造の校舎がシルバニアファミリーのお家みたいに可愛く見えて。ここに通いたいと思いました」
「川に飛び込んで、時には雪を食べて。全力で遊びました。ご近所の人が温かく見守ってくれていたから、雨の日も雪の日も安心して生活できましたね」
美山の小学校に通って、主体的になったことも大きな変化だったそう。
「地元の小学校は人数が多く、自発性のない私は前に出たい気持ちもなく発表も苦手で、いつも教室の隅っこにいました。でも知井小学校はクラスに5人ほどしかいないから、隠れようがない(笑)。発表もせざるを得ないのでやっているうちに、キャラが変わって。最終的に学級委員長もやりました」
こうした長野さんの変化にご両親もビックリ。豊かな自然と住民の温かな眼差し、そして自信を胸に、無事、山村留学を終えたのです。
大人になっても続いた美山との繋がり
その後、地元の学校に戻り、高校卒業後に就職。事務員として働き、転職を考えていた頃、タイミングよく声をかけたのが、子どもの頃お世話になった山村留学センター「四季の里」でした。
山村留学にはOB会があり、年一回、懇親会があります。地元に戻った後も、長野さんは毎年のように美山に足を運び、交流を続けていました。
美山の暮らしが好きで、顔見知りの人も多いため、移り住むことに対して不安はなかったと長野さん。お誘いを受けた1~2ヶ月後には美山に移り住みます。
「美山に住むのは2回目だから、地元に人からはNターンって言われているんですよ」
そんな言葉からは、長野さんが美山のみなさんに歓迎されて戻ってきたことが伺えます。
良くも悪くも“おせっかいさん”が多いまち
山村留学の指導員として、子どもたちの野外活動の引率をしたり宿直をしたり。かつて自分がしてもらったことを、次の世代の子どもたちに繋いで行った長野さん。2年半ほど勤め、結婚や出産を経て、その後はパートとしてご縁のある複数の会社で働いています。
子ども3名を育てながら、時には漁協の事務員さん、時にはパートナーの仕事の手伝い、そして現在は観光名所である「かやぶきの里」の駐車場スタッフとして。さまざまな仕事をしてきましたが、共通するのは「誰かのお誘い」から始まっていることです。
さまざまなお誘いに「やってみよかな」と軽やかなフットワークで乗っかってきた長野さんの根っこにあるのは、恩返しの気持ち。
「山村留学でお世話になったから恩返しをしたいんです。働いてるかやぶきの里は、美山の玄関口のような場所。駐車料金を頂く際に、かやぶきの里やまちのことを聞かれることがあります。かやぶきの里のガイドさんから歴史を学んで、自信を持って伝えられるようにもなりました。これからも美山の魅力を伝えていきたいですね」
世界一贅沢な風景と共に
そんな長野さんが美山で一番おすすめしたいのが、満点の星空です。
「住んでいて一番贅沢やと思うのが、夜中に窓を開けて空を見上げた時に飛び込んでくる星空。年中、天の川が見えるんです。私、絶対世界一得してるなって思います」
「小学校は統廃合して、美山に一校しかなく、子どもはスクールバスで通っています。近所の保育園もなくなったので、車で片道20分かけて送迎しています。地区によっては移住者が増えているところもありますが、私が暮らす知井地区は空き家も少なく、若い人が入ってきづらいので子どもの数も減っていて……。そんな現状をなんとかしたいですし、訪れる方々にも良いところだけではなく、暮らしにくいところも含めてありのままの美山に触れて欲しいですね」
美山の生活を知るためにおすすめなのは、民泊とのこと。機会があれば、ぜひどこかのお家にお邪魔して、美山の良いところも不便なところも、体験してみるのはいかがでしょうか。
そして、その中で「美山が好き」、「美山に住みたい」と思えるほどきらりと光る何かを見つけることができたなら、ぜひ美山のみなさんに伝えてください。外からの視点は、美山の住民が地元を再発見することになり、まちを誇り思う気持ちの醸成に繋がっていくはずです。